こんにちは! 名言好きなSei(@tabirich358)です。
今回は、道元禅師の修行の仕方がわかる正法眼蔵随聞記についです。この本の感覚がどらえれば、悟りに近づけるとされています。
動画は2本あり、要約のまとめバージョンとフルバージョンです。
ぜひ一読していただきたいです。
正法眼蔵随聞記講話
鎌田茂雄
正法眼蔵随聞記講和は、生活に実際に即しながら、学道する人は如何にあるべきか。
修行のやり方や心構えが懇切丁寧に説かれている。
権力者にへつらう心こそが仏法を破り、後に禍いを残すものだとしている。
道元にとっては、悟りを得ようとする修行もまた我欲であると断ずる。
道元がどこまでも排除し、否定したのは世俗の価値であった。
真理のために真理を学ぶ人が学道の人である。この人が守るべき最も重要なことは、自分のために仏法を学んではならぬということである。立身出世のためというような世俗的な目的もあるし、自分が救われるため、悟りを得るためというような宗教的目的もあろう。道元はたとえ世俗であろうと聖なるものであろうと、我がために修行すること、学道することを断々乎として拒否したのである。悟るため救われるために真理を得ようとするのではない。真理の前、仏法の前には自己は無でなければならぬ。
真理を体現した自己が尊いでのはなく、自己に体現させられた真理が尊いのである。
道元にとって仏法修行は他の何ものかを得るためではなかった。
だからこそ我が身心は一物ものこさずして放擲(ほうてき)することが要求される。
自分のためにするのではなく、仏法のためにつかわれねばならぬ。
仏法のためにすべてのことを行じて、代りの所得を求めてはならないのである。
まさに無所得の修行がそこにある。仏法は人生のためのものではない。
人生が仏法のためにあるのである。永遠の真理、
すなわち仏法のみにすべての価値を置くことにもとづく。
仏法のために仏法を行ずるという真理に生きる生き方を
「随聞記」は繰り返し繰り返し説く。
人間の一生など朝露(あさつゆ)の如き、泡沫(ほうまつ)の如きものにすぎない。
あまりにも時は速やかに流れ去る。
だからこそ存命の間に余事をやってはいかぬというのである。
道元は決然としていい放す、「万事を放下して一向に学道すべし」と。
法のために身命を棄てるということは、仏教の経典にも書かれていることであるし、
観念的には懐奘もよく分かっていたことだが、それを全身心をもって受けとめている
道元のすがたを目の前にした時、懐奘は、この人こそ仏そのものと見えたにちがいない。
道元は禅僧たるべき者がまず第一に心を用うべきは、ひたすら坐禅することであると説く。利鈍賢愚にかかわらず、座禅さえすれば、おのずと仏道を完成することができるという。
道元はどこまでも純粋な正伝の仏法をもってその根本的立場とした。焼香、礼拝、懺法(さんぽう)を修法したり読経(どっきょう)することは、これはまったく必要ないのである。ただひたすら打坐して身心脱落(しんじんだつらく)すべしというのである。
まったく一切の雑行余行(ぞうぎょうよぎよう)を拒否した透徹、
純粋な立場を鮮明にする。
静かに瞑想して真理や仏を観想するのが、道元のいう坐禅ではない。
まさしく身体の仏法こそ坐禅にほかならない。道元の場合は、
正伝の仏法を行じ行じて行じぬいてしかも止まるところがない。終りがない。
悟りを得ようとする目的もない。ただ行じゆくのみ。
頭や知性によって真理を知るのではない。身体によって行じることによって
真理が検証されるのでなければならない。そこにこそ禅僧の本分が生きるのであり、
禅者の家風が生まれるのである。
道元は名誉栄誉を得るために仏法を修行してもいかぬ、
果報を得るために仏法を修行してもいかぬ。
況んや霊験を得るために仏法を修行してもいかぬという。
それでは一体何のためにやるのか。ためにやることは一切いかぬというのである。
それを道元は「仏法のために仏法を修す」といったのである。
道元が「仏法のために仏法を修する」ということは、
仏法を手段として何かを求めるのではなく、仏法を仏法として行ずるだけなのである。そこに手段の入りこむ余地はない。
所得を期待する利己心もない。完全な自己放棄がここに見られる。
道元の不屈不撓の修行を支えたのは、強烈な無常観であるが、
まず、「無常迅速」と「生死事大(しょうじじだい)」をあげている。
無常のあまりにも速やかなることを直視し、生死の問題こそ人生の一大事であることを
知る時、人はこの生命が生かされている間、修行し、学ぼうとするならば、
ただひたすらに仏道を行じ、仏法を学ばねばならないのである。
仏道以外の文筆詩歌などを修め学ぶことは、
仏法を学ぶものにとってはつまらないことであるから、それを捨てなければならぬという。
修行ということに完成、成就ということはあり得ないという。自分で修行が完成した、
悟りが開けたと思ったら、それが道にそむいたことになる。
仏道を行じることではなくなる。死ぬまで一生の間、これでは駄目だ、これでは不充分だと思って、ついに死んだ時、後の人がこの不断の修行を見て、
あの人こそ道を成就した人であるというにすぎない。一生の間、
不断に修行を続けるには純一無雑でなければならぬ。
師と弟子の関係は難しい。師は自分の弟子に自分が得たものを伝えようと
願わないものはない。しかし師と同学同行できる弟子は稀である。
弟子がまったく師と同じであれば、師がいれば弟子は不用であるし、
弟子がいれば師は不用ということになろう。同学同行といっても、
性格、健康、生い立ちなどが異なるのであるから、弟子と師と異なり、
師は弟子とまったく同じでないからこそ、師は師として尊く、
弟子は弟子として尊いのである。
師と弟子は、「不伝の妙」というのがあるはずである。極到の境は自ら内証するしかない。師の内証は師ひとり知るのみ、弟子の自得を待つほかならない。
語り伝えることができるのは、外であり、形である。語り伝えることができないのは、
内であり、心である。ここに至ればすべて自得内証するしかない。
人より受けるようであるが、しかも自ら得るから自得といい、
外より学ぶようであるが、しかも内に証するから内証という。
学問、技芸、宗教、すべて自得内証以外にはあり得ぬ。達磨と慧可は同行したからこそ、自得内証があり、如浄と道元も同行したからこそ、自得内証があり得たのである。
仏道に入るには自分の心で善悪を分けて、これは善い、これは悪いと思うことを
全部捨て去って、これは自分にとってよいだろうかとか、
自分の心にかなうのではないかとか、そういうふうに思いわずらう心を全部忘れて、
善いとか、悪いとか、そんなことを分別することなく、仏祖のいわれたこと、
行なわれたことに随順して行くしかない。
このことは善いことで、仏道に叶っているだろうと思って、やってみよう、
行じてみようと思っても、それがもし仏祖のなされた行ないではないならば、
絶対にしてはならない。このように行なうことこそ、仏法の法門にかなうことなのである。自分自身にも、今まで習ってきた法門についての考え方があろうが、それは捨て去って、ただ今、現在、自分がこの目で目のあたりに見ている祖師の言葉や行ないに
次第に心を移してゆかねばならない。このようにすれば、智慧もすすみ、
悟りを開くことができる。今まで習学してきた仏教の教えも、
捨て去るべき理由があればこれを捨てて、
祖師の言葉や行ないを直接に学ばなければならぬ。
道元は、まず第一は学道の者は人情を捨てねばならぬということである。
道元は「人情を捨てる」という意味を「仏法に随がひ行く」ことだと明言する。
一切の世情を捨てるには、世間で普通にいう、是非善悪の分別を一切捨て去れという。
善いことだから仏祖の言葉や行ないには随うが、
悪いことだから随わないというのではない。自分自身でこれは善いこと、
これは悪いことというような分別のはからいは、
心のせまい小乗の根性の者がすることで、真の仏者がなすべきことではない。
第二に、道元がいわんとするのは、仏祖先徳の行ないであれば、どんなに身心ともに
苦しくとも必ず行なわねばならぬということである。逆に仏祖の行ないにないことは
絶対にやってはならないということである。
第三に自分が従来勉強してきたあらゆる知識を一切捨て去り、
ただ一向に仏祖の行ないを実践せよ、ということである。
是非善悪を放下することは、結局、無心になることにほかならぬ。無心になり、私を去って、仏の言葉と仏の行ないに随順するのが、仏法に入る第一の要件でなければならない。少しでも自我や、私があれば、是非善悪をこえて随うことができるものではない。
一点も師を疑う気持があったらならば、これはできない。
師の中に自分の全存在を投げ入れなければできるものではないのである。
仏道を学ぶのに才能は必要ない。知恵によって仏道を学べるものではない。
ただし知識は必要ないからといって、文盲であってはならぬ。
仏道修行には多聞高才はまったく不必要であり、
たとえ本性が愚劣であってもさしつかえない。
道元はまず仏道を学ぶことがけっして難しいことではないことを主張する。
能力のない者でも、知恵の低い者でも仏道を学ぶことはできるのだが、
それでは、誰でも悟りを開くことができるかというとそうではない。
道元は宋の僧院の例をあげる。宋の天童山のような大叢林(だいそうりん)には、
何百人から一千人にもなる修行僧が一生懸命に修行しているが、
その中で本当に悟りを開く人はわずかに一人、二人にすぎないという。
誰でも学ぶことができる仏道修行であっても、
真箇に悟りを開くことは容易なことではない。能力が劣った者でも入り得る仏道修行だが、その道を完成することは至難である。それは一体どうしてか。
道元は学道の心掛けをつぎのように説く。仏道を学ぶのは、志があるかないかにかかわる。本当の志を発して、己れの分にしたがって参禅学道する人は
必ず仏法を得ることができる、と断言する。
それでは具体的に実際にどうすればよいのか。
道元はその用心の根本をただ欣求(ごんぐ)の志が切実でなければならぬと説く。
欣求とは心の中から願い求めることである。真心より願うことである。
しかも、その志は切実でなければならぬ。「切」とはくりかえして求めることである。
不断に求めることである。どんな事があっても、少しの時間を求めて、
心にかけておかねばならない。この気持ちを絶えずもっているならば、
必ず目的を遂げることができるのものである。
道元は「先づ只欣求の志しの切なるべきなり」というが、同じことである。
切実に不断に欣求すること、これが宗教への門でなければならない。
念仏についての学問をどんなにしても、所詮、念仏は分からぬ。
念仏についての知識はまったくなくとも、欣求の志さえ深ければ必ず往生できる。
ここに宗教の妙がある。
仏道を学ぶ者は自己の見解に固執してはならぬと説く。たとえ会得することがあっても、それはあやまりではないのか。もっとよい考え方はないのかと思って、
立派な人や、先人の言葉を尋ね求めるべきである。
しかし、先人の言葉であるからといって、それに固執してはならない。
絶対に先人の言葉が正しいとは限らないからである。
より正しい言葉、より正しい教えにしたがわなくてはならぬ。
道元が自己の見解に固執するな、と説くのは見解(けんげ)や学解(がくげ)は
真の仏法ではないからである。真の仏法は行にある。打坐にある。となると、
見解や学解は勝れた考え方に従えばよい、という柔軟な考え方になる。
自分の見解にどこまでも固執するのは、行がともなっていないからである。
道元はこのような「心」や「仏」に対する先入見というものは、
父母が教えたものではなく、とりたてて理由があるわけではないが、
自然に長い間に人の話などを聞いて信じてきたことによるものであるという。
このような固定観念、先入見というものは、なかなか一朝一夕の間には
訂正できないものである。しかし仏教の正しい教えでは、
「心とは草木である」「仏とは瓦や石ころである」と説くのであると知ったならば、
以前から持っていた先入見をさらりと捨てて、瓦や石ころを仏であると
信じなければならぬ、旧見をさらりと捨て去ることができる者のみ、
仏道を得ることができるという。ここで道元がいわんとしているのは、
古い見解や先入見を捨て去って、正伝の仏法の教えに従わなければならない
ということである。
道元は何をいわんとしたのか。まず第一には古い見解に、
先入見にまどわされてはならないことを述べた。この中で重要なのは、
「心とは草木だ」「仏とは瓦や石ころだ」ということである。
第二にはどんなに悪を犯すことがあっても、心に堅く仏道を守っているならば、
その悪心は消え去るものである、ということだ。
悪心を浮雲や秋風に喩えるならば、何時かは必ず晴れたり、吹きやむことを説いている。
道元は「利他(りた)の行(ぎょう)も、自利の行も、ただ劣なる方を捨て、
勝なる方をとらば、大士の善行なるべし」と断定する。
利他行も自利行とのどちらをとったらよいか、常識的に利他行を先とせよというのは
観念にすぎない。利他行の方が優先すると考えるのは凡夫の理解にすぎない。
道元がいうのは、利他とか自利とかを簡単に比較するのではなく、
自利でも利他でもどちらでもよい、仏道にかなっている方をとればよいのだと。
これはまことに厳しい。普通の感情や頭でものを考える思考を完膚なきまでに
たたき破ってくれる。道元にとっては正邪善悪(せいじゃぜんあく)の基準は、
道徳や常識にはない。ただそれは第一義である仏道にかなっているか否かであるのだ。
どんなに偉大な祖師であっても、もとはたんなる凡夫である。
仏祖であってもそうであって、皆もとは凡夫であった人が仏祖になったにすぎない。
凡夫の時には、必ず悪業もあり、悪心もあり、鈍でもあり、おろかでもあったのである。しかし仏道修行に志し、優れた指導者の下で修行したから、凡夫の悪業もなくなり、
尽(ことごと)く仏祖となることができたのである。
今、現在に生きるわれわれもそうあらねばならない。自分が愚鈍(ぐどん)であるから
といって、けっして卑下(ひげ)してはならない。只今、この世において発心しなければ、いつ仏道を行じたらよいのであろうか。
強いて修行すれば必ず仏道を完成することができるものである。
「随聞記」の一文に重要な内容を多く含んでいる。
①まず、仏といっても、仏は本来凡夫にすぎないと断言していることである。
②凡夫とは一体何であるのか。仏も凡夫であった時は、悪心もあり、悪業もあり、救いがたい人間であったと説く。
③修行し仏道を完成するためには必ず指導者が必要であること。
④自分は到底、仏になれないと、自分を卑下してはならないこと。
⑤修行というのは強いてやる、無理にやる、何としてもやることが大切であること、
などの重要な問題を説いている。この一文は短いが、「随聞記」の基本的な修行観、
人間観が凝集して説かれた部分ともいえる。
真実の仏道を得るということは、これまでの身心を放擲(ほうてき)して、
只そのまま師の教えに随ってゆけば必ず道を得ることができるという。
これこそが修行上、一番大切なことなのである。
自分の見解に固執すれば、どうしても師の言葉を受け入れることができなくなる。
師の言葉が耳に入らなければ、師の仏法を得ることができない。絶対に確信がなければ、弟子に対してこうはいえぬ。いわんや年の上である懐奘に対して、
このように断言できた道元の確信はすばらしい。道元は何かを確実に観ていた。
仏の風光を体得していた。だからこそ、
このような確信に満ちた言葉を発することができたのである。
道元が説く正伝の仏法以外の他の教えは、全部捨ててしまえと断言する。
さらに、世の中のことも、寒さや飢えのことも全部忘れ、
ただひたすら身心を清めて聞く時、初めて師の言葉を自分のものとして聞くことができる。ここにまさしく「聴聞(ちょうもん)」が成り立つ。
玉は琢磨(たくま)することによって立派な器となる。
それと同じように人は練磨することによって立派な人となる。
どんな玉でも初めから光り輝いているものはない。どんな勝れた人でも、
初めから鋭利(えいり)な人はいない。必ず琢磨し、練磨しなければ
玉も人も立派にはならぬ。このような道理が分かれば、
自分で自分を卑下していい加減な修行をしては絶対にならぬという。
Myチャンネルはこちらから。
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YouTube 【マル秘】教えたくなかった正しい悟り方【正法眼蔵随聞記】
YouTube 【要約フル】正法眼蔵随聞記講和は正しい悟り方がわかる【道元禅師】
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