こんにちは! 名言好きなSei(@tabirich358)です。
今回は、知る人ぞ知る維摩経講和の話です。スピリチュアル好きや修行僧はぜひ見てほしい内容です。
在家の維摩さんが完膚なきまでに観念を叩き破ってくれます。
維摩経講和
鎌田茂雄
—–解説——
「維摩経」ですが、その主人公は釈迦でもなく、その弟子でもありません。ごく普通の社会生活を営む仏教者なのです。
維魔は病気をしています。釈迦が弟子たちにお見舞いに行くように言います。しかし、誰1人としてお見舞いに行こうとする人はいませんでした。なぜなら、弟子たちはみな維摩に教えを論破されたことがあったからです。
そんな中、唯一、文殊菩薩だけがそのお見舞いを引き受けます。智慧一番とされる文殊菩薩と慈悲の心が強すぎるあまり病気になってしまった維摩、2人は大乗仏教の教えに関する討論を始めます。
一番の見どころは、維摩が仏の悟りに関しての意見を求められた時に、黙ってしまう、という場面です。これを「維摩の一黙、雷の如し」と言ったりします。維摩は、言葉自体が分断や分別をはらんでいるため、仏の悟りの境地を言葉で説明することはできない、という主張をしたのです。ここに、「空」の難解さと言語の限界が垣間見えます。
このように、在家の維摩が、釈尊の弟子を相手に、手を変え品を変え空を説いている在家の維摩が、僧プロ集団を論破し、正しい真理を説いていくところが魅力の物語です
—–解説——
死と生とで考えてみれば、たしかに死と生とはまったく別の存在ではあるが、生があるからこそ死があるのだ。生と死はまさしく非連続の連続である。生と死とを別の存在とみれば非連続ではあるが、生がなければ死もないのであって、生と死は連続していることになる。
神通力や超能力はわれわれには不用である。真に必要なのは、この世界の中に即して霊性界をみることである。生滅と不生滅とが不二になる世界をみることである。霊性界は何によってみえるのか。それは三昧である。意識と呼吸と肉体とが一つになって宇宙の生命の中にとけこんだとき、維摩が説く真の天眼が得られるのだ。
男にとってはある意味においては、人生とは女との闘いである。男と女に互いに傷つけあり、痛めつけあいながら、なおかつ別れえない悲しい存在である。
悪魔はわれわれが好ましく感じるものに形を変えて近づくために、どうしても誘惑されやすい。悪魔に誘惑されないためには、強い意志力を必要とする。一つの目的を完遂するためには、すべてのショウゲを排除してゆかねばならない。一切の邪魔ものは切り捨てるしか手がないのだ。
高原の陸地に蓮華は生えない。汚泥(どろ)の中からこそ蓮華は咲くようなものだ。衆生は煩悩の汚泥の中にあるからこそ、仏法を知ることができる。
自分の心をしっかりと制御し、自分の過失を反省し、他人の短所をあげつらわないこと。他人の短所はみえるものである。それに反して自分の短所はみえない。自分自身を反省することによって、他人の短所も暖かく包みこむことができるようになる。自分も短所をもっている。他人も短所をもっている。それならば暖かく包むことのほうがどれだけ心豊かになることか。
人間は限りなく汚い、また限りなく美しい。垢(けが)れも浄(きよ)らかさも、不二であることを知らねばならない。
タイ国などの寺院に行くと、一般の人々がみな仏に対して合掌し礼拝するすがたをみるが、みているだけであっても心が洗われる思いがする。合掌の姿勢ではけっして喧嘩口論はできない。合掌のすがたこそ帰依と和のシンボルである。
迷いがあるからこそ、悟りもある。闇があるからこそ光明がある。
この一度しかない人生を生きるにあたって仏教と出会った人は幸福である。仏教を知っているのと、まったく仏教の教えを知らないのとでは天地懸隔の差がある。
人は時にあやまるが、真理は不変である。不変の真理に依って修行すべきであって、生滅変化する人に依ってはならないのだ。
学道の心がまえで一番大切なことは、自分の心と反しても、師や経典の教えに従うこと、これが大切なのだ。我見を捨てて、ひたすら経典と師の教えにしたがうことが学道の用心であると喝破する。
身体で実行していると、新しい無限に深い世界が分かってくる。これを悟るという。人生どんなことにも悟りはある。それは実行しているからである。身体で知るからである。
新学の菩薩が陥りやすい欠点は、自分自身がその教えを信じられないこと、それからその教えを信じている人を誹謗することである。人間は自分は高し、自分の考えは正しいという我見がある。これは勉強すればするほど、我見や思いあがりがなくなるというのはウソである。仏教も勉強してますます駄目になるのだが、われわれ人間の悲しいさがにほかならない。
汚濁の人生のなかで鍛えられてこそ、人間の光は増す。貪欲の世界に生きてこそ、染着(ぜんじゃく)のむなしを知る。汚泥の中に咲く蓮華こそ本当の名花なのである。仏法は煩悩、汚濁なくては生じない。煩悩、汚濁にそのまま流されてゆくのは仏法ではないが、煩悩、汚濁がなければ仏法も生じない。仏法とはどこまでも煩悩、汚濁の真只中にあって咲き匂う蓮華なのである。
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