こんにちは! 名言好きなSei(@tabirich358)です。
今回は、高橋信次先生の般若心経のお話です。この人の本を読めば、正しい修行の仕方や悟りの方法がわかります。ぜひ一読していただきたいです。
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Contents
YouTube 【高橋信次】仏陀の悟り方がわかる般若心経
原説 般若心経
高橋 信次
・はしがき
お経の中に書かれてある内容を心の指針として実践する、これが本当の人の道といえるのではないでしょうか。
小乗仏教、大乗仏教であるとか、あるいは何々宗、何々宗派とか色分けされたものは、仏教とはいえません。中国の仏教にしても、日本の仏教にしても、バラモン教やヨギー・スートラ、拝火教まで混合していると考えられますし、護摩焚きなどという行事は、本当の仏教が行なうことではないはずです。
他力本願の読誦だけで、ブッタの悟りに到達した人が果たしているでしょうか。
般若心経が自然科学と全く変わっていない神理であるということ、つまり、大自然こそ、人生におけるわが師である、と知ることができたのです。
・釈迦の誕生とバラモンの時代
私達の心の世界は、善悪のいずれの方向にも通じやすいし、一人よがりの欲望にも陥りやすい。つまりこうした誤った道にも入りやすいということです。山中で、不調和である心や生活をそのままで禅定などをしていると、その人間の心に応じた、不調和な地獄霊達が、耳もとで囁いたり、また心の中に湧いてくる偽りの霊達に支配されて、あたかも自分が神から指命された聖者だと錯覚し、それが組織されて、他力信仰の新興宗教が数多く生まれてしまう、といったことにもなるのです。いつの時代も同じことがいえましょう。
つまりこの五体は、意識の表現体にすぎないのだ。五官の、眼をとおして見た現象、耳をとおして聞く聴覚、鼻で感じる嗅覚、舌で味わう味覚、肌で感じる触覚——-。シッタルダーは、そうした五官の経験をとらえる意識、心がすべてを支配していることに気がつき、苦しみを作り出していることを遂に発見したのです。そして、その苦しみを克服するのは、心の在り方にある、という偉大な普遍的生命であるおのれを発見したのです。
弦の音は、強すぎれば糸は切れ
弦の音は、弱すぎては音色が悪い
弦の音は、中程に締めて音色が良い
弦に合わせて 踊れよ踊れ みんな揃って 踊れよ踊れ
心の正しい基準を、中ほどにして、片よりのない道が大事なのだ。
シッタルダーは、生きている大自然に感謝することが大切だ、と気がつきます。——-しかし、この大慈愛に感謝するだけで良いのだろうか。植物も、ある者は自らの生命を動物達に供養している。万物が相互関係を維持して、大自然が存在しているのだ——-。シッタルダーは、報恩という行為があってこそ、感謝の意味が価値づけられるのだ、ということが解ってきたのでした。——-報いてやることだ。報恩をすること、布施をすること、ということを——–。大自然の中に生きている自分の行為を、人類社会に奉仕すること、その行動力こそ人間一人一人にとって最も必要なことである、と悟ったのでした。
すべての苦しみは、永久不変の意識に包まれている心、そこに発生する。
自我我欲が次第に育ち自己保存の煩悩が、酷い歪みのある心を作り出して曇りを作り、暗い人生を作り出してゆく人間——-そのことにも気がつくのでした。
ウルヴェラの太陽も、カピラの太陽も一つではないか。この一つの太陽が、全ヨジャナー(全世界)に熱や光を与えている。つまり、皆、平等なのだ。
——-他人との争いの原因は何だろうか。片よらない正しい言葉で、相手の心を考えて語ることが大切なのではないか。
六年間探し求めていた師は、自分自身の心と大自然という、最も身近なところにあったのです。
人間にとって、いかに自らの心を豊にするか、というのは最も重要なことで、墜落に到る道は近く、善なる調和への道は遠い、ということです。善なる心と行為を行って悪を退けるのは、むずかしいことなのです。日常、善の方向に対していかに正しく生きるか、それが大切といえましょう。しかし、この現象界においては、心の中の善が、そのまま他に通じないし、問題も多いといえます。人は、反省をおろそかにして、罪を重ねてゆく、というのが、この現象界の現実です。互いに、見えないから、聞こえないから、話さないから、自分の都合で判断して、片よった方向に進み、苦しみを作り出しているのです。しかし、他を不幸にしよう、などといった考え方は、必ず自分にはね返ってくるもの、ということを知らねばなりません。自分の都合が悪いという理由で、他を恨んだり、そしったり、嫉んだり、怒ったり、してはなりません。つまり片よった心になってはいけないとういことです。
反省によって、犯した誤りと、その原因をとり除いて素直に神に詫びることが必要なのです。
歩みをとめて、自らの想念と行為を見ること、これが必要です。
自然もその条理に従って、春夏秋冬が区分されているように、すべての善悪にも、一定の基準があるはずだ。
彼らの生活には、きちんとしたルールがあるではないか。相互に足るということを知っているのだ。
金や銀、瑠璃、珊瑚、ルビー、ダイヤなどの財宝も、所詮はひとときの欲望を満たしたにすぎない無情なものではなかったか。この世を去るとき、やはり持って帰れはしないのである。肉親にしてもそうである。
目隠しされた現象の世界では、人は、盲目の中で、より豊かな心を求め、広い慈愛に満ちたおのれを作るとともに、全ヨジャナー(全世界)の人々の調和された平和な世界、それを作ることが目的なのである。
しかし、肉体舟に乗ってしまうと、心の存在が解りにくいために、きびしい人生を体験しなければならないのだ。だから、親子であっても意思の違いが起こったり、また、わが子可愛いさから世襲制度を作ったり、きびしい階級制度を生んでしまうようになり、権力や地位や財産や領土へと、その欲望は展がり、遂に闘争と混乱を作り出してしまっているのである——-。
シッタルダーの心の中に展開されて行く神理は、ブッタ・スートラ(悟りへの道)の根幹となって、はっきりと心の中に刻まれて行くのでした。心の正しい見解を持つことによって、疑問の点が解かれ、心の中からこみ上げてくる暖かいものをとめることができませんでした。きびしく、極端な肉体行をしていたときには、全く心に触れなかった諸問題が、もつれた糸がとけように、系統的に、明解な答えとなって返ってくるのでした。
マラーに魅せられると、人は正常な心を失い、やたらと闘争心がつのってきます。
マラーは、そういう不平不満のある人の心の中に常にひそみ、その心に不調和を作り出してゆくのです。
シッタルダーの心の中にも、情欲の名残りが頭をもたげ、修行中にもこの煩悩を断つことに苦慮したことでした。煩悩の炎が燃えれば、それがマラーに通じ、彼らは、シッタルダーの心を墜落させようと躍起になるのでした。
シッタルダーが、眼の前に現われたマラーの実態をしっかりとみつめながら、正しい判断を下すことができたのも、常日頃、思うこと、行うことを、片よりのない心の物差しではかり、確かに判断しながら生活をしていたため、道を誤ることがなかったといえます。
自分の欠点を、勇気をもって修正することは、不可能ではないのです。良き判断をするための智慧を養い、おのれを修正するための日々の努力を怠らないようにすることです。苦しみとなる原因を作らない、このことが大切なのです。墜落への道は、なだらかな坂を下るようなもので、苦労しなくても落ち得るものです。精進の道が、きびしく困難であるということは、自らの欠点に甘いからといえましょう。それほどに、おのれに克つということは、大変にむずかしいことなのです。一旦おのれに克ち、悟りの境地に到達すれば、そこには平穏な、安らぎのある調和された環境が待っている、ということを悟らなくてはなりません。
一切の執着から離れたときの心というものは、生まれたばかりの美しい心に帰るのです。この人生では、自ら作り出した欲望への悪あがきがかえって重荷となり、一生を無意味にすごしてしまう者達が多いのです。
片よりのない正しい心の物差しが、どれほど心を豊にすることかと、シッタルダーは、探し求めてきた偉大な道に、ようやく辿りついた美しさを、感じるのでした。
心を無にした禅定が、本当に誤りであるということがはっきりと解ったのです。心を無にするということは、自らの肉体舟を不調和な者達に明け渡すということになるからである。このような者に憑かれれば、もはや人間としての品性を失い、地獄の再現となる。心の曇りをとり除いて、光明に包まれているときなら、マラーの跳梁(ちょうりょう)に任せることはないだろう。人は、常に片よりのない中道の心と行いによって、心に光明が与えられるのだ。心は、無にするのでなく、偉大な宇宙生命との大調和が大切だということである——-。
今までとは、確かに何かが変わってきた。自然も、自分の心の中もだ、とシッタルダーは思います。
動物的な行為、権力を傘にしてのわがままで人々に与えた大きな心の傷、それを、今さらのように恥じ入るのでした。
特に愛欲は、大きく心に巣食っていた。肉体的な五官から入る欲望も、心の中にある本能と感情の在り方を正せば、ただ一時の快楽にすぎないもの、ということに気がついたものを……。足ることを忘れて、他のものに心を移す欲望は、かえって苦しみを作り出すことになる。押えることでなく、関わり合わないことが大切であった……心が燃えていて、正しい判断ができるとはいえないのだ。理性を失ったそこにあるものは、本能のままの動物的行為にすぎないものである。たとえ一時の欲望を満たしても、残した苦しみはつきまとい、ひとつ間違えば、憎しみの心を相手に植え付けることになる。独占欲、安穏逸楽、自己陶酔、虚偽、苦悩、それらは、心に曇りを作り、大きな歪みの原因となる。心の中で異性との行為を想像しても、姦淫(かんいん)になる。想念はものを現象化するからだ。
人間は、正しい心の基準にのっとり、自己の偽ることのない生活をすること、これが大切だ、ということだ。
思慮深くなること。これを失ってはいけないのである—。
たとえ植物でも生命は厳然として存在しているのですし、それに報いることは、無駄にしないこと、それが報恩といえましょう。
——-悟るまで死ねないという心も、生臭いものは一切口にしないという心も、さらりと捨ててしまった。そして、生と死の想いを断じてみると、実に気楽で、気分は爽快だった——-。
肉体には肉体の役割があり、その役割をなおざりにしてまでも、なお悟りがあるとするのは、明らかに邪道であり、観念の遊戯にすぎない。悟りという心の問題は、健康な肉体と健全な心にある。病弱で、意識が不明瞭な者が、どうして神仏の心に接することができようか。
心を広く、大きく、開くためにまず健全な肉体が必要であり、それは欠くことのできない絶対の条件といってもいい。悟りの大きな前提は、精神と肉体の調和にある——-
友は小鹿と小鳥達だ。だが、彼らは決して自分を欺くようなことはしない。彼らは、自らに足ることを知っている。
人間の指導者は、自己保存が強すぎるのではないだろうか。むしろ、知恵の乱用をしているのではないか。指導者は、大衆のために、不平等な環境を作るべきではないし、自ら大衆の範たるべきである。おのれに甘く、他人にきびしいような指導者は、もはや大衆の敵であり、偽善者という以外にないだろう。
今現われた現象は、次元の異なる実在の世界であり、暗闇の世界が現実の姿、つまり明と暗、それは心の内面の在り方によって異なってくるのだ、ということを、知ることができたからです。明の実在と、暗の現実は、そのまま心の善悪を象徴しており、その善悪を見極めることが、悟りの本質に迫るものである、と発見するのであった。
世の混乱の源は、問題の原因を求めないでこうした自己の都合や現象に左右されてしまうからである。大自然の色彩もまた、山川草木の調和によって作り出されていることを知るべきだ。
五官をとおして、感知できる現象の世界は、無常そのものである。無常と知りながら、欲望に満ち足りることなく、なお人間は悩みを持ち、欲望に翻弄されている。人生は、所詮、苦しみの連続なのである。苦しみのない人生があるとすれば、それは、現実との妥協か、逃避か、自己満足のいずれかであろう。
すべての人が、その望むところは、死を迎えるまでにその悩みから解放されることであろう。幸せこそ、解脱なのである。
その苦しみの原因は、肉体以外の心の問題がある。思うこと、考えることの心の作用が、いろいろな苦しみ、悩みを生み出しているのだ。その悩みは、肉体の眼と、社会生活の体験と、自ら学んだ知識によって、あるものを美と感じ、あるものを醜と見、善と思い悪と断じているからといえる——-。
シッタルダーは、一日目と同じように、“心”の問題についてもう一度考えなおしてみたが、正しい物差しこそ、心を豊かにする根本だということが、はっきりと解ったのでした。
それは、生活からの逃避ということにもなるだろう。本来なら、与えられた環境において正道を実践して、悟りの境地に到達しなくてはならないはずだ。しかし、カピラ・ヴァーストのような、あらゆる不調和な環境では、それはおそらく不可能なことだった。正道では、あくまで、親子、夫婦、兄弟などの調和に神理があるのだ。だが、自分は、家庭を捨てて一人でいる。家庭の調和については、全くの無資格であるというしかない。
小事を捨てて大事に生きる以外にはない。
シッタルダーは、不甲斐ない、夫として父として、ヤショダラやラフラーに心から詫びるのでした。
シッタルダーは、きびしい、自己追及への反省をするのでした。
パアピアス・マラーよ。私はもはや、王の地位など望んではいない。一切の執着から離れたのだ。
権力や暴力で支配しようとしても、人の心を支配することはできないのだ。
人間がこの地上界に生まれてきたときは、誰もが、丸い豊かな心であったろう。それが、生まれた環境や、教育や思想、習性によって、自我が芽生え、欲望によって、心の中に歪みを作り、暗い曇りに閉ざされる。自ら神の光をさえぎり、苦しみを作り出してしまうのだ——-。
幾年も探し求めて、遂に得た道は、あまりにも身近な、自分の正しい心の中にあったということに気がついたからです。
人間とは神の子であり、人間と大自然というものが常に一体となって呼吸をし、神の意志とともに、大自然に存在している、ということです。
地上の喜怒哀楽からは、こうした自覚は生まれてこない。物を物として見ている間は、心の安らぎを求めることはできないのだ。
心の隅に巣食っていた部分が、魔王達に通じていたのだ。怒り、ひとりよがり、恨み、我欲、闘争、破壊の心が、心の隅にあったのである
目覚めてみれば、自分をとり巻く大自然の美しさ、万生万物相互の密接な関係、その伏線の精妙さが、今は良く解ります。
心の調和されて安らぎの境地になると、神の光に満たされるから、後光の肉体が拡大されるのである。
一切の苦しみは、自らの心と行ないの作り出したもの。すなわち、自然の掟である中道という神の意志に抗したために起こった苦しみなのである。
過去、現在、未来のときの流れは、流水の中にあっては、知ることも悟ることもむずかしいものです。それを悟るには、反省という止観によって初めて可能なのです。
ゴーダマ、あなたが体験した道を聴いた者達は、真の理を見て人生の迷いから解脱し、心は満ち足り、安らぎの境地に到達するだろう。そして、悪の道から離れて、わがままな心を制し、迷いの道から遠ざかり、内在された心の中で体験した偉大な智慧が湧き出し、調和された生活を行うようになるだろう。内在された智慧とは、各人の転生輪廻の過程で体験された一切の記憶が貯蔵されている宝庫のことだ。
すべてのものは縁によって生じ、縁によって滅びるものだという神理から始まり、人生の苦しみ、自らの心が作り出したもの。それは五官六根を縁として生じ、この苦しみから解脱するには、八正道の実践によって救われる。そして、一切の執着から離れ、足ることを悟るならば、心は安らぐのだ。
肉体舟だけにとらわれている多くの衆生の憐れさを思い、本当に人間はおろかな者だと思うのでした。地位や名誉や財産という欲望に眼がくらみ、足ることを忘れ、欲望のとりこになってこの地上界に大きな執着を持って亡くなった者達は、きびしい地獄界に住み、魂のきびしい修行にさらされていること、それを見ることができるようになりました。
しかし魂はたとえ肉体が滅びても、新しい肉体を持って実在界に帰って行く。そして、それはその人々との心と行ないとの差によって、帰りつく場所が違ってくるのである——-。
人間は、誰でも転生輪廻の記憶を持っているのです。それは、潜在された九十%の意識の中にその秘密が隠されています。
このような現象は、心の中の埃や塵を払う以外に、悟ることは不可能です。というのは、心に曇りがあっては、神の光に満たされることがないからです。
インドのゴーダマ・シッタルダー・シャキャ・ムニ・プッタの悟りまでの経過を良く熟読して、自分で体験してみることです。
煩悩から解脱する道は、両極端なその方法や考え方を正さなくては、悟ることができないということが解ったのだ。
あなたの心の中の火だ。心の中の感情を、そんなに燃やして、果たして正しい判断ができるだろうか。護摩を燃やせば、灰が残るだろう。あなたの心の中が燃えれば、あとに苦しみの灰が残るだろう。物の正しい見解もできないだろう。それは、自らを苦しみに突き落とすとともに、正しい人々にも炎のような感情を与えるだろう。
八正道の実践以外に、道は開かれないだろう。心に曇りがなければ、神の心に満たされて本当の安らぎが得られるのだ。
深遠にして無上の神理を求める者が、地位や名誉の高低を争うようなことは、サロモンとしての心がけにふさわしくはないだろう。
神理には、古いとか新しいとかいう差はないのです。永遠不変なものなのです。宗教家も、信仰者も、実践生活がないため、神理と頭だけでこね回してかえって理解できなくなってしまったといえるでしょう。
本当のサロモンとは、生老病死の苦しみから解脱するため、自ら片よりのない心を持ち、中道の物差しを持って歩んだ者をいう。中道の物差しとは、八正道をいうのである。この正道を、毎日の生活の中で実践してこそ、心のわだかまりがなくなり、一切の恐怖心から除かれて、安らぎの人生を送れるようになるのだ。苦しみは自らの悪い行いによって原因を作り出しているものだ。そのため、人は執着から離れることができなくなって、正しく生きることができないのだ。八正道の道を行じている者、それが本当のサロモンというものだ
自力の基準を良く知って生活をすれば、心の中に曇りは生じないし、ひっかかりもできないでしょう。そうすれば、神の光は、私達の心と身体に満たされ、次元を越えた実在界から、必ず他力の援助が得られるのです。自己保存や自我我欲の暗い心では、祈れば祈るほど苦しみの泥沼の中にひきこまれます。それは、地獄霊や動物霊に心の中を支配されてしまうからです。
内在する偉大な智慧に到達する道は、八正道に在る、ということです。この道を、自分自身で実践し、体験したときにそれは解明され、到達できる境地なのだ、ということができるでしょう。この道を、自分自身で実践し、体験したときにそれは解明され、到達できる境地なのだ、ということができるでしょう。
つまり欲望のとりこになって、心を失ったとき、人類は自らの行為によって苦しみを作り出しているということです。これはすべて、ひとりよがりの欲望が、不調和な混乱を作っているので、他人のことを少しでも考えれば、公害など未然に防ぐことができるでしょう。
利益のソロバン勘定が先になるから、問題が起こるのです。
人生は、文明のためにあるのでしょうか。物質文明の奴隷になるために生まれてきたのでしょうか。物質文明は、人間の心を忘れ去った生活の知恵が優先したとき、欲望を駆り立てる害毒にもひとしいものといえます。人間のための物質文明であって、物質文明のための人間ではないはずです。
正しい共産主義というものは、批判や総括のない、独裁者のない、心ある者達による大衆の平等と信頼の中で築かれて行く、ユートピアでなくてはならないといえます。相互の理解と信頼の心の調和のないところに、ユートピアなど完成されません。心を失った思想は、自ずから自滅への道を辿ることでしょう。物質経済文明は、人間が生きるために、より良い社会生活が営めるために作り出されたもので、それが争いの種になるところに問題があるといえるのです。
生まれた環境も、実は自分で選んで出てきたものだということを忘れ、経済的に貧しい環境に出てしまうと心まで貧しくなったり、逆に恵まれて生まれると貧しい者などを冷たい眼で見るようになり慈悲の心を失ってしまうのです。
自分が恵まれていたら気の毒な人々に愛の手を差し伸べて幸せをともに喜ぶ同士になる、これが、まことの報恩の行為ではないでしょうか。貧しく生まれたなら、一生懸命に働いて、自分の力で経済的に安定した環境を作れば良いのです。そして、足ることを知って、同じような貧しい人々に愛の手を差し伸べてやることが大切でしょう。人は、この世を去るとき、すべての物を、持って帰ることはできないのです。人間の作り出した経済や不動産は、すべて自分の物ではありません。いつかは、返さなくてはならないものなのです。
自分のものは、自分の意識とその中心にある心の体験した一切の現象以外にないといえましょう。
その預かりものに執着を持って、苦しむことはおろか者のすることです。人生の目的は、物質文明の中で、いかに豊かな丸い調和された心を完成するか、ということです。それが、人生の修行目的だ、ということを悟るべきでしょう。
自力なくして、他力の力を得られないということを知るべきでしょう。
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僕は過去にも本を出しております。出版社様より声をかけていただき、紙の本を出版させてもらいました。よく自費出版と勘違いされますが商業出版です。
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・商業出版→出版社から本を出すこと。自分が1円も払うことはない。印税が入ってくる。しかし出版社の意向を組んだ本になるので、有名な作家でないかぎり、自分の好きなようには書けない
自費出版か商業出版かは、出版社名を見ればすぐにわかります。だから本を出したことあるよっていう人がいても、一般の人ではわからないと思いますが、出版関係で仕事をしたことがある人は、出版社名を聞けばすぐに自費出版か商業出版の判断できます。
ちなみに僕が過去に出版した本は、名言を扱った2冊の本です。「野球選手×言葉」と「絶景×名言」になります。
【note(ノート)を公開中】「戦略は3つ・ごく普通の一般人が2冊の本を商業出版した方法を公開中!大好きな事で2冊の本を出版したやり方を教えます」
公開したnoteはこちらです。
なぜこのnoteを公開したかというと、友人にどうやったら本を出版できるのかよく聞かれるからです。僕は大好きな「野球」と「旅行」で2冊もの商業出版の夢を叶えました。今回、その出版に至るまでやり方をまとめたnoteを公開させていただきました。7755文字のボリュームです。
【Noteの対象者】
・本を出版してみたいと思っている一般人
・出版についての全く知識のない素人が対象
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≫note:【戦略は3つ】ごく普通の一般人が2冊の本を商業出版した方法を公開中!大好きな事で2冊の本を出版したやり方を教えます